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ブルーブラックマガジンより
【前編】ソーシャルバリューをデザインする

一般社団法人 社会デザイン・ビジネスラボ(略称:SDBL)の代表理事である中村 陽一氏が連載中のウェブマガジン「ブルーブラックマガジン」(運営:株式会社ブルーブラックカンパニー)にて、SDBLの理事でもある冨田 昇太郎氏のインタビュー記事が掲載されましたので前編をご紹介します。
2回に分けてお届けするインタビューの前編では、「商社はソーシャルビジネスだ」という信条を抱くに至ったプロセスや、「地域の価値を世界につなぐ」ための事業手法を中心に伺っています。

別ページにて後編もご紹介しておりますのでぜひご覧ください。
後編では、昨年オープンした「アフターコロナ時代の新たなサードプレイス」の内容を中心にお話しいただいています。

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https://blueblackmagazine.jp/

第3回 「商社はソーシャルビジネスだ」――
「先用後利」をモットーに、地域の価値を世界へつなぐ
ホクセイプロダクツ株式会社
代表取締役社長 冨田 昇太郎氏(前編)

●冨田 昇太郎氏 プロフィール
三井物産株式会社、日本軽金属株式会社を経て、1999(平成11)年、ホクセイプロダクツ株式会社 代表取締役社長に就任。商社という立ち位置から地域資源の発掘を行い、それらを国内外の他の地域につなげることで新たな価値を生み出す「ソーシャルデザイナー」を志す。北海道、東京、富山、京都、沖縄、米国のポートランド、スウェーデンのストックホルムに自社のオフィス拠点があり、各地をつなぐネットワーク力が強み。ホクセイ金属株式会社、ホクセイトレーディングASIA、ホクセイヨーロッパ、ホクセイノースアメリカの各代表を兼任。立教大学社会デザイン研究所研究員。慶應義塾大学法学部政治学科卒(国際政治学専攻)。

ホクセイプロダクツ株式会社 代表取締役社長 冨田 昇太郎氏

●聞き手:中村 陽一氏 プロフィール
株式会社ブルーブラックカンパニー代表取締役。立教大学名誉教授、一般社団法人社会デザイン・ビジネスラボ代表理事、社会デザイン学会会長、東京大学大学院情報学環特任教授。

羅針盤なき事業承継から金属商社として経営を確立

――冨田社長とは、私が10年前から企画運営に携わっている日経ビジネススクール「ソーシャルデザイン集中講座」にご参加いただいたご縁で、お付き合いが始まりました。非常に印象に残っているのが、最初に高岡のオフィスへお邪魔してお話をしたときに「商社はソーシャルビジネスだ」と断言されていたことです。言われてみると、本当にその通りだなと思うのですが、そんなふうにきっぱりとおっしゃる方は初めてでした。
 今日はそんな確信を得るに至るまでのお話や、事業の組み立て方、また、いまお邪魔している新オフィスについてのお話をじっくりと伺いたいのですが、まず御社の事業概要をご紹介いただけますか。

冨田 先に地域的なバックグラウンドからお話ししますと、私たちが本社を置いている富山県高岡市は、銅器や漆器をはじめとする伝統工芸の街です。なかでも約400年前から受け継がれてきた高岡銅器の全国シェアは約9割にも上り、お寺の梵鐘や仏像、仏具、銅像、花瓶、食器など大小さまざまなものを製造しています。

 また、ご承知のように、富山県は日本一のアルミ王国として名を馳せています。高岡銅器などの鋳造技術に加え、豊富な水資源や電力などアルミの精錬に必要なインフラや、原料のボーキサイトを輸入するための港湾を擁していたことからアルミ産業の集積が進んだというわけです。

 私たちも1978(昭和53)年より、ここ高岡の地でアルミを中心とする商社として出発し、約半世紀にわたって事業を展開してきました。沿革としては、まず1978(昭和53)年にアルミなど非鉄金属の地金卸売業としてホクセイ金属株式会社を創業、その後1997(平成9)年にアルミ加工製品を扱う商社としてスピンアウトしたのが弊社です。両社とも父が創業し、私が引き継いだ形ですが、ホクセイ金属株式会社は現在、日本軽金属株式会社のグループ企業となっています。

 そのように、我々は「富山のアルミ」に特化して、あるいは別の見方をすると、その枠組みに縛られた事業活動を展開してきたわけですが、ここ10年ぐらいの間に形を大きく変化させてきました。それは、富山に軸足を置きながらも国内外6地域に拠点を構え、各地の特産品などのお取引に関わりながら人びとの交流や新たな文化の創出につないでいく試みです。それを「ライフスタイル事業」と銘打っていますが、具体的には伝統工芸品などを輸出して日本の文化を発信するお手伝いや、クラフトビールの副原料となるフルーツピューレやホップの輸入、またクラフトビールの開発支援などにも取り組んでいます。

ホクセイグループの事業
グループ企業4社(ホクセイ金属株式会社、ホクセイトレーディングASIA株式会社、Hokusei Europe AB、Hokusei North America Corporation)とともに、国内外7拠点(富山・東京・北海道・京都・沖縄・アメリカ・北欧)で事業展開している。

――冨田さんご自身は大学を卒業して10年以上、東京でお仕事をされていたそうですが、ゆくゆくは家業を継ごうと考えていらしたのですか。

冨田 いいえ、ある時期までは全く考えていませんでした。大学時代は国際政治学を専攻しており、将来的には国際連合のような国際機関に勤務したいと考えていたのです。ところが、大学3年生の時にアメリカで開催された国際的な学生会議にお招きいただき、各国の学生といろんな青臭い議論をしているうちに、これから社会を変えていくのはやはり経済ではないかと考えるようになり、進路変更しました。いずれは自分でベンチャー企業を興したいという夢を抱いてはいたのですが、そのためにも、まずは海外との接点を持とう、と。そういう意味ではやはり総合商社なのかなということで、新卒で三井物産に入社しました。

 ただ、いま振り返ればいい意味での転機だったと思うのですが、私自身が思い描いていた商社像とは大きな隔たりがあり、実は早々に辞めてしまったのです。さてどうするかと考えた末、家業と関わりが深く、新卒時の就職活動で内定をもらっていたアルミの総合メーカー、日本軽金属株式会社へ中途入社しました。ここはまさに、ものづくりそのものの会社ですから、営業や企画の仕事に携わりながらも、作業服を着て足繁く工場へ通う日々でしたね。

 日本軽金属でのサラリーマン生活は、オフタイムも含めて実に楽しかったのですが、起業の夢は持ち続け、大前研一さんが設立した起業塾「アタッカーズ・ビジネススクール」に通ったりもしていました。ただ、現実的なプランになかなか落とし込めずにいたのも事実です。

 そうして入社10年が過ぎた頃、名古屋転勤の打診があったのです。今の会社に居続けるのか、それともこのタイミングで思い切って起業に踏み切るのか、相当悩みました。

 そんなとき、そういえば2年ほど前、ホクセイプロダクツという新会社をつくったと親父が言っていたぞと、頭にふと浮かんだわけです(笑)。そこを拠点として自分でビジネスを展開してみたらどうだろうと考え、親に電話して「戻るから」と宣言しました。すると、予想に反して「戻ってくるな」と言われまして。「いまは大変な時期だし、帰ってこないほうがいい。お前は今の会社で結構評判もいいようだから、残ったほうがいいぞ」と。そうなると、あまのじゃくな気持ちが芽生えて、いわば無理矢理帰ってきた感じですね。1999(平成11)年12月、いわゆる平成不況の真っ只中でした。

――跡継ぎとして歓迎されると思いきや、まさかの反応だったわけですね。

冨田 そうなんです。父も内心、いずれ跡を継いでほしいと思ってはいたようですが、あのタイミングで戻ってきてほしくはなかったみたいですね。実際、意気込んで帰ってはみたものの苦労の連続で、父に止められた意味がよくわかりました。

 忠告を無視して帰ってきた私に対し、父は「ホクセイプロダクツにはスタッフが4人だけいる。お前は1月1日から社長だから、あとは好きにしてくれ。以上」と(笑)。お得意様の引き継ぎもなければ、売るものすらロクにありません。ほったらかしそのもので、普通の2代目、3代目の事業承継とはまるっきり違いました。

 いざ出社してみて驚いたのは、まだパソコンもほとんど普及していない時代なのに、1日に1本も電話がかかってこないのです。前の職場は電話が終日鳴り響いているところでしたので、余計にギャップを感じました。

 とにかく何かやらなきゃということで、最初に手がけたのは折りたたみ式ステッキチェアの輸入です。オーストラリアから仕入れたのですが、全然売れず、在庫の山を築いただけでした。ペットが水を飲むためのアルミ皿をつくってみたりもしましたが、これも全く売れなかったですね。

 そんなトライアルアンドエラーを繰り返しているうちに、あるタイミングで「ここは『薬の富山』じゃないか」と遅まきながら気がついたのです。ご承知のとおり、富山の薬売りは江戸時代から全国を回り、家々に薬を置いては後日使った分だけ代金をいただく「配置売薬業」を営んできました。その流れから、富山県には製薬メーカーが集積しています。一方、薬は湿気や高温、光などの影響を受けやすく、品質管理のためアルミ包装されていることが多いのですが、サプライヤーが少ないのです。

 そこから製薬会社をひたすら回り始めたのですが、薬の世界は参入障壁がものすごく高いんですよ。何度も通ってようやく会っていただけるようになっても、お見積もりを依頼していただくまで平均して約3年といったところでしょうか。それぐらい粘ってようやく「何か一つぐらい買ってあげようか」とお声がけいただけるようになり、気がつけば一つ二つと製薬メーカーのお取引先が増えていきました。

 製薬メーカーさんは参入障壁が高い代わりに、一度入るとなかなかプレイヤーが変わらず、ずっとお付き合いをしていただけます。それが収益の安定につながり、経営がようやく軌道に乗りました。社長に就任して約10年後のことです。

転機となった2つの経験

――金属商社としての地歩を固められてから、あまり時間を置かずにライフスタイル事業へ進出されたようですね。従来からのアルミ事業を拡大していくことで、会社をもっと大きくしていこうという発想はなかったのでしょうか。

冨田 2011(平成23)年9月にニューヨークで起きた「ウォール街を占拠せよ」(Occupy Wall Street)のムーブメントを見たことが大きな転機になりました。当時たまたま出張で現地に行っておりまして、いわば巻き込まれる形になったわけですが、衝撃的な抗議デモを目の当たりにして「アメリカはやはり資本主義が行き過ぎてしまい、この運動に参加している人たちがある意味、新しいアメリカの流れをつくっていくのではないか」と痛感しました。金儲けだけの資本主義はもう行き詰まっており、もっと社会へ積極的に関わっていくようなビジネススタイルへとシフトするべきではないのか。そんな気持ちが芽生えたのは、あの経験が大きかったと思います。

 では、何を参考にすればいいのかと模索していたとき、たまたま北欧の建築やまちづくりを学ぶ2週間のツアーがありまして、そこに参加させていただいたのです。フィンランドが生んだ近代建築/デザインの巨匠、アルヴァ・アアルトの手がけた建物などを巡りながら、社会保障制度などについても少しずつ学んでいったのですが、実に印象的だったのは、人びとがとても幸せそうに生きているということです。秋から冬にかけての北欧は富山と気候がよく似ており、曇天が多く雪も積もります。私たちにとっては気の滅入る季節なのですが、スウェーデンやフィンランドでは、みんなとてもおしゃれに生き生きと暮らしている。そこに大きなギャップを感じまして、もっと交流したい、よいところを学んで吸収したいという思いを抱くようになりました。それが第2の転機だったと思います。

ライフスタイル事業という新分野への挑戦

――ビジネスや社会のあり方、さらには人としての生き方を根底から考え直さざるを得なくなる体験が続いたわけですね。ただ、それを事業につなげるとなると、また次元の違う話ですよね。新規事業の開発にあたっては、まず何から始めていったのですか。

冨田 我々はもともとアルミの商社ですから、本業で扱っているものをフィンランドやスウェーデンへ持って行き、買ってもらうことができれば一番いいわけです。しかし、当たり前のことですが、現地へいきなり乗り込んで行っても「あなたは誰ですか」という存在でしかありません。それ以前に、まずはその地域のお役に立つことから始めるのが大事だと思ったのです。やはり自分から先に利益を得ようとするのは、ちょっと図々しいのではないか、と。

 そう考えるのはある意味、「富山のDNA」のなせる技かもしれません。先ほどもご紹介しました富山の置き薬の商法は、まず薬箱をご自宅に置かせていただき、体調の優れないときは自由に使っていただきます。そして代金は後で頂戴する。先に相手のお役に立つことをして、後から自分を利するというこの商法は「先用後利」と呼ばれています。それはビジネスモデルという以上に、商売を営む上での思想あるいは哲学というべきものです。

 北欧への進出にあたっては、これを現代に置き換えた形でのビジネス展開が重要だと考えました。まずはスウェーデンに焦点を絞ったのですが、最初に手がけたのが交通事故防止のための反射材グッズの輸入です。スウェーデンは日本に比べて交通事故が少ないのですが、その違いはどこから来ているのか調べたところ、理由は意外とシンプルで、反射材グッズの着用率がとても高いのです。バッグに付けるもの、腕に巻くものなどタイプはさまざまですが、デザイン的にもかわいいものや遊び心のあるものが揃っています。スウェーデンではそれを国内やヨーロッパ近隣諸国に販売しているわけですね。

 それを知りまして、日本でも特に交通事故の多い地域や、北陸のように曇りの日が多くて日中も暗いようなエリアで販売していけばいいのではないか、と。そのルートとしては、スーパーやデパートなどの小売店ではなく、例えば北海道が拠点の航空会社、エアドゥさんと提携し機内販売品として取り扱っていただく。すると出張帰りの方がお子さんへのお土産として買ってくださったりして、少しずつ売上が伸びていきました。

安全をコンセプトにしたスウェーデン生まれの反射材アクセサリー「MIRAFEX」

冨田 そういう小さなことから始めましたが、点と点がつながれば、やがて線になります。スウェーデンの政府関係者にも「あの会社はスウェーデンと日本を結んで、わが国の価値を高めつつ、日本にもいい影響を与えようとしてくれている」と思っていただけるようになり、日本の商品を輸出する道も開けていきました。同時に、こうした「先用後利」の発想こそが新規事業の基盤をつくっていくことに気づき始めたわけです。

――伝統工芸の街という高岡の特性を生かし、日本各地の伝統工芸品を欧米に輸出されてもいますが、それも今のお話の延長線上にある発想でしょうか。アメリカのオレゴン州ポートランドにホクセイノースアメリカを2016年に設立され、日本の百貨店でのポートランドフェアの開催や輸入代行なども手がけておられますよね。

冨田 おっしゃる通りです。1ドル100円から150円にまで一気に跳ね上がり、円安になった途端に「積極的に輸出しましょう」という話が出てくるわけですが、逆の立場で考えれば、儲かるからといって一方的にものを送りつけられたら、決していい気持ちはしませんよね。そうではなく、日本のものを購入してほしいのなら、積極的にアメリカのものも買うべきではないか。双方向貿易、あるいはクロストレーディングという形でお互いにgiveしなければ、give and takeは成立しませんよね。

 ただ、日本でもつくられているものを海外から買い付ければ自ずと価格競争になり、国内産業を圧迫しかねません。ですから、日本にはないもの、日本ではまだ紹介されていないものを輸入する。さらに、単品だけ仕入れると結局は売って終わりになってしまいますので、そうならないために、やはり相手地域で生活する人びとの生き方やライフスタイルを反映した商品に着目する。つまり、商品とともに「地域の価値」をつないでいくことにこだわっています。

 例えば、ポートランドをはじめとするオレゴン州の方たちは、大量生産されたものを大量消費して終わるのではなくて、ローカルメイドの製品に愛着をもち、長く大切に使います。そういった環境意識やクラフトマンシップには大いに共感しますし、やはり我々も学びつつ生活に取り入れていきたいと思うのです。そんな思いから、ヨットの帆でつくられたカバンや、自転車の廃チューブを使ったペットの首輪といった商品を積極的に輸入しています。

(左上)自転車通勤率が全米トップのオレゴン州ポートランドにある「サイクルドッグ」社の自社工場。自転車のタイヤがパンクするたびに捨てられていたインナーチューブをペット用品にアップサイクルしている。地元に雇用を創出し、将来のクリエイターに貴重な仕事の経験を提供することにもこだわり、オレゴン州で一貫生産。
(右上)ペットの首輪、リード、折りたたみ式ウォーターボウルなどの商品。
(右下)創業者のラネット・フィドリッチ氏の来日イベント。元NIKEのプロダクトマネージャーで自転車通勤していたが、パンクしたタイヤのチューブは簡単にリサイクルできず、ほとんど廃棄されていることを知り起業に踏み切った。
(左下)タイヤの廃チューブからつくったペット用品は、水にも強く丈夫。また、細菌を増殖させず臭くならないため、環境にも犬にも優しい製品。

冨田 もちろん、商品哲学やライフスタイルを日本の皆さんに理解してもらうには、かなり時間がかかります。自転車の廃チューブを使ったペット用品に対しても「安くてきれいな新品があるのに、なぜゴミからつくるものに高いお金を払う必要があるのか」と、最初は芳しくない反応でした。

 ところが、5年、6年と経っていくうちに、これはまさにアップサイクルの仕組みで、いま取り組まなくてはならない課題だというメッセージが伝わり、手応えを感じています。ですから、やはり我々は商社という立場から「オレゴンの人たちはこんなふうに次の時代を見据えた商品開発をしていますよ」というストーリーを伝えていく役割があると思うのです。

ライフスタイルから社会課題へ

――よく知られているようにポートランドは環境都市という側面でも注目されており、日本からも多くのツアーが組まれていますよね。その多くは先進事例を学ぶことで制度や施策に反映していこうという発想ですが、商品を通じてライフスタイルを紹介することで、社会課題に向き合う意識を養っていこうという発想が面白いですね。

冨田 ありがとうございます。ライフスタイル事業には、いま申し上げたプロダクツ関連のほかに、フード&アグリプロダクツ事業というもう1つの柱があります。アメリカの農産品や農産加工品の輸入についてはしばしば日米貿易摩擦の火種にもなってきたわけですが、現地では余ったフルーツを腐らせないように、新鮮な段階でピューレ(食材をすりつぶし、さらに裏ごしをして滑らかに整えた半液体状の加工食品)に加工しています。弊社はそれをクラフトビールの副原料として活用することを提案し、日本各地の醸造メーカーにつないでいます。アメリカのラズベリーやブルーベリーなどをクラフトビールの発酵過程で加えることにより、新たな味ができるわけです。

クラフトビールの本場、オレゴン州ポートランドの醸造所とつないで、日本国内のクラフトビール醸造家向けのオンラインセミナーを開催。

冨田 いまクラフトビールは地域おこしの一環としても注目され、破竹の勢いで増えていますが、フルーツピューレを加えることで味の差別化にもつながりますし、飲んでくれる人の層も広がります。言わば、アメリカの農産加工品を輸入することで日本の新たな食文化を生み出そうという取り組みです。

 一方の輸出事業では、商品を通じて日本という国の良さを知ってもらいたいと思うのです。その代表的な事例は伝統工芸品の輸出で、日本各地の優れた工芸品を富山に集めて、それをアメリカのオレゴン州に輸出しています。オレゴン州のポーランドには海外における日本庭園の最高峰とも評されるジャパニーズガーデンがありますが、そこでの販売を通じて、アメリカを中心とした観光客の方々に日本文化の真髄に触れていただく。また、広島の折り鶴製品を販売することで被爆の歴史を伝えたり、アイヌ民族の刺繍を施した製品から民族の多様性について考えるきっかけを提供したりもしています。

 こうした取り組みを通じて相手の文化や歴史を知り、相互理解が深まれば、インバウンド(訪日外国人旅行客)の増加といった経済効果だけでなく、友好や平和を志向する民意が形成され、最終的には国と国との紛争を抑止していく力になるのではないでしょうか。

 今もロシアとウクライナの間で戦争が続いていますが、最近すごく感じるのは、国と国との外交にはもはや限界があるということです。きれいごとではなく、本当に民間外交の方がいま大事なんじゃないかな、と。その基本は、やはり互いを尊重して価値を認め合うことですよね。地域資源を発掘し、その背後にあるストーリーを他の地域へとつないでいく商社は、そうした民間外交においても大きな役割を果たしていける存在だと思うのです。

――NPOをはじめとするサードセクター、なかでも海外との交流を進めているような分野では「これからは国際交流ではなくて民際交流だ」という言い方が、かなり前からなされてきました。その発想がビジネスの領域にも広がっていることを実感しますね。まさに隔世の感を覚えながらお話を伺っていました。
>>後編に続く

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【前編】ソーシャバリューをデザインする

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